自作キャラとの距離感
斉所です。TwitterとかPixiv等で、しばしば「うちの子」といった紹介文と共に自作のオリジナルキャラクターの絵が公開されているのを目にします。割と若い方がそういう表現を遣っておられる印象ですが、
「自作キャラ」=「うちの子」っていう感覚、正直なところ、あんまりピンと来ない部分があったりします。
私自身が何作か一次創作した中で生じたキャラクター達は、私の感覚としては「我が子」っていうより、「普通ではあり得ないくらいプライベートから(時々)心の中まで教えてくれる他人」という感じです。
キャラを赤子から育てたわけじゃねぇ
って言うと言葉尻とってるようでもありますが、実際そうなんですよね。大人のキャラが生じる時は、最初から大人のキャラとして生じてきます。
勿論、その大人キャラの子供時代がどんなだったのかを事前に考える事はありますが、その考えるっていうのは「大人として生じたキャラを見て」「こういうキャラはこういう出自であったんではないか」みたいに想像する、という感じです。
あるいはお話が進むにつれ、他のキャラ達との関係性の中で、勝手に語り出してくれたり、私(作者)の知らない面がボロッと出て来たりします。事前の想像よりも、こういった偶発的な発見の方が面白かったりします。
ただそれは、一旦の筋道(いわゆるストーリー・プロット・ネームと呼ばれるヤツら)を立てた後、それがどうにも進まなくなった所でやっとこさ「バチバチー」と電気的に見つけたりすることが多いです。
他の作家さんはどう考えてはりますん?
作中の人物は独自の姿や言葉や行動、尊厳を持っていて、たとえ架空の存在であろうと、作者の都合や段取りに合わせて生きているわけではないです。 作者は彼(彼女)を手持ちのパーツで勝手に作っているのではなく、想像力を振り絞ってこの世にはいない彼(彼女)に何とか近づこうとするのです。
— 田中ユタカ TanakaYutaka (@tanakayutak) 2015, 12月 15
例えば彼(彼女)がある行動をとる何かを話す。それが正しいのか、それとも作者側の勝手な都合なのか。その違いは厳然と在ります。ほんとうのこととただの段取り。正解と不正解がはっきりと在ります。その違いを明確に感じ取ることが出来るかどうかが、その作品の作者であることの能力だと思います。
— 田中ユタカ TanakaYutaka (@tanakayutak) 2015, 12月 15
田中ユタカさんが仰るほどに想像力を振り絞り切れているかどうかはともかく、方向性としては私も同じ感覚で取り組んでいます。
また、内海まりお (@mariouji)さんのツイートや
大抵の漫画講座ではキャラクターが重要!と説かれるが寄生獣の岩明均などはシナリオがあってそこにキャラを当て込んでいくとか聞いてそれもありなのだな。と思ったらもっと驚いたのが曽田正人のMoonは主人公は実在の人物として彼女の伝記を彼女が納得するように描いている、てなことだった。
— utumi MARIO 内海まりお (@mariouji) 2012, 3月 23
ブログ記事
極楽京都日記: 【創作とは時間の圧縮である】:キャラクターの作り方講座。(13年12月の記事)
極楽京都日記: キャラクターの作り方(15年11月の記事)
も面白い内容です(13年12月の記事の、作者自身より頭の良いキャラを描く事は可能!という理屈は滅茶苦茶ナットクさせられました)。
とはいえ結局さぁ
「自作キャラは全部自分の内面を投影してるって言う話も聞くし、やっぱ自分の子みたいなもんなんじゃん?」とも言われそうです。
「内面の投影」っていうのは、そういう面も当然あるでしょう(自分の中にまったく取っ掛かりのないものは書けない)。ただ、現実の他人に相対する時、その相手に対して抱く印象だって、いわば自分の内面(経験)の投影、という部分はあるんではないでしょうか?
そういう事がいわゆる「先入観」「第一印象」というやつで、そこから付き合いを続けていくうちに知らない面が見えてくる……これは、まさに、先に述べた自作キャラとの関係性そのものと申せますまいか!?
…って、自作キャラを「うちの子」と呼ぶ感覚を否定しようというつもりは全然ないんです。というか、実の子の事だって全部分かるわけじゃないというか、成長するにつれて全然理解できなくなっていくもののようですし。
みなさんの距離感はどんな感じなんでせうなー?